なぜ鍼灸?
IT業界から、なぜ鍼灸へ?とよく聞かれます。話せば長いことながら、…。
鍼との最初の出逢いは、20数年前に、山中湖で剣道の合宿をした時。主宰者が鍼灸院を開業していて、休憩時間に頭や肩などに鍼を刺していた。何人も頭に鍼を刺した人がたむろしているのは、当時の私には、異様な光景でびっくりしたことをよく覚えています。
次は、10数年前に、つれあいが癌になり、知り合いの先生に高気圧酸素治療を受けに行った時。老人の多いリハビリ専門の病院ですが、そこで、鍼も一緒に打ってもらいました。私も、見よう見まねで自分でやって見ました。日曜日でも、いつ来ても良いと言われた。実際、先生は365日、自ら宿直をしていて、日曜日に早く行っても、起きてきて治療をしてくれました。先生は、イエスが癒しと宣教を始めたガリラヤの町の名を病院名にしたように信仰心が厚く、私にとってキリストの再来のような方でした。その時に、定年後は、鍼灸師などいいよ、それほど金もかからず、定年もなく、感謝されると言われたのが記憶に残っていた(のでしょう)。
なぜ定年前に? 勤めていたところが50歳を過ぎると、管理職を退いて部下無しになり定年までいるか、2年間の猶予期間(能力開発休暇として好きなことをできる)後に退職するかという選択がありました。後者に決断した理由を大きい順にならべると、
(1) 父が脳出血で、半身不随になっていてそのリハビリに役立ちたい。
遠く奄美大島で弟と住んでいました。私は長男で親の面倒を見ることを期待され、自分でもその気持ちを持ちながら、結局、仕事や家族のことにかまけ、故郷で定職を持っていた弟に託しました。そのことは、深く心の奥に残っていて、何かをしたいと思った。専門学校の1年生の夏に、母の13回忌があり、帰った時に習いたてのあんまマッサージをしたら非常に喜んで、鍼も打てるようになるともっといいと手応えを感じました。しかし、その年の暮れに心筋梗塞であっけなく亡くなってしまった。目標を失って、それから2年生の1年間あまりは、茫然自失のままだった。しかし、今は、定年を待たずに行動して、少しでも喜んでもらったのは良かったと思っています。
(2) 知り合いの先生の進めた定年もなく、感謝されるという言葉
言われた頃よりも、月謝も高く、感謝される腕を磨くのは終わりのない長い道だが、先生の言葉がなければ、鍼灸ということは思い着かなったでしょう。
(3) 経営・ITコンサルをする際に、相手の身体のケアもできると一石二鳥
初めは、コンサルをするときに、無口な私が鍼灸の技術もあれば、話の種にもなるだろうくらいに思っていた。だが、考えてみると、仕事が辛いときは身体も辛い。身体の手入れで、事業も積極的になる。忙しい経営者は、出張してきて両方まとめてサポートしてくれたら便利じゃないか。今は、「事業と身体、まとめて面倒みよう」という提案ができて良かったと考えている。
(4) 定年になって、子会社や関係会社に行って昔の同僚や部下と仕事するよりは独立だ
当時はそう思っていたが、期間も経った現在では、わだかまり無く仕事をできると思う。それより、プライドよりも、自分が長く携わったITの仕事をすることが、自分を活かし、社会にも貢献する道だと思うようになった。それで、ITコンサルも続けることにした。鍼灸と二筋道を進むのは、自分を全開、まんかいに輝かすことになるだろう。
(5) つれあいの福祉の仕事への思いを引き継ぐ
つれあいは、子供が大きくなったら老人福祉の仕事をしたいと思いながら、亡くなった。坐禅を指導している老師が、やはり、つれあいを亡くして、その供養には、思いを引き継ぐことであると話された。先生の奥さんは、海外の恵まれない子供の里親をしていたことを、その子供から手紙が来たのを見て知り、遺志を引き継いで里親になっているという。私自身は自助論派でがんばってきたつもりだが、思いを継いで、福祉のまねごとをするにも役立つ技術だと思う。
(6)鍼の力はすごい
鍼によって、腰痛や顔面麻痺などが良くなることを体験して、この道を選択したことが良かったと思う。後知恵で、今はこう思っている。
(7) 新しい夢が生まれた
故郷の奄美大島に、海の直ぐ側に知人の空地があり、そこに、鍼灸院を開く。床は、板張りにし、剣道もでき、太極拳、坐禅もできる。机を並べて、ITの講習会もできる。東京と行ったり来たり、…。後付けだが、この夢を是非実現したいと思う。
10年かかって、夢が実現。奄美に分院を開きました(剣道は出来ませんが)。