自証三昧から般若心経へ

坐禅

ナムの会坐禅会で、坐禅の後の講話テキストが、自証三昧が終わり、般若心経に変わりました。
自証三昧は、感動もあるがやや難解なところもあった。般若心経は親しみやすいので、興味ある方はどなたでも参加できます。南無の会「坐禅会」案内をご覧下さい。

 般若心経は、おそらく一番有名なお経でご存じの方も多いでしょう。このお経が、有名な孫悟空に登場するお坊さんがインドのサンスクリット語(梵語)から中国語に翻訳したものであることを知っている人は多くないかもしれません。

孫悟空の物語り自身がこのお坊さんが中国からインドへ行って来たときの実体験、旅行記(世界三大旅行記と言われる『大唐西域記』…皇帝太宗に提出した)が元になっているのです。お坊さんの名は三蔵法師になっていると思うが、三蔵は三大経典、法師はお坊さん、今風に言えば翻訳家の一般名称です。本当の名前は、玄奘と言います。

この方は唐の時代の人で、インドで沢山の経典が新しく編纂されて中国へ入ってくる。その新しい情報とそれまでの翻訳に飽きたらず、自分でインドへ行こうと考えて実行した時の体験談です。唐が成立したばかりの頃で、鎖国状態であり、禁を破って密出国をして、途中で山賊に捕まってウルムチあたりで幽閉されたりした。現地民に助けられて、天山山脈から、パミール高原を越えてインドへたどり着きました。
現地の人にも玄奘は人気であり、そこの神であった猿が孫悟空として登場するというような、般若心経そのものの入口についても、豊富な知識を中野先生から聞くことができる。

なお、2007年には、玄奘の足跡をたどって、西安からウルムチ、天山南路、パミール高原、和田にいたり、タクラマカン砂漠を縦断する旅行を中野先生を先達に行った。私も、ちょうど会社を退職する直前で、卒業旅行のつもりで参加した。天山南路は荒涼たるはげ山と砂漠の間を列車で24時間も移動し、タクラマカン砂漠は、さらさらの細かい砂で西遊記の妖怪が出てもおかしくない雰囲気だった。この旅行記はいずれ、じっくりと紹介します。


自証とは、三昧(真実、悟り、仏のいのち)を自分で確かめ、証明すること。自分に引き当てて理解し、その喜びを語る。そして、信じたことを日常のあらゆるところで、日常の中でこれが仏法の教えと語るのではなく行動で示す。生きている姿で語る。

先生や釈迦から学ぶ。先徳にあこがれる。同時に、確かめるのは私たちめいめいで、私のスピリチュアリティ(私の真実)に従う。この両方が必要なことを説くのが自証三昧。

※三昧…静寂、不染汚、落ち着きの世界。これはサバーディというインドの言葉を音訳。

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(付録)中野先生による自証三昧の講話から(覚え聞き書き)
「あの世って、何?」…ようやく、こういう問題を正面から、日本の医療も取り上げることができるようになった。癌患者が「あの世って?」と言える。言い出せることが大事だ。以前は癌になると、それだけでパニック状態だった。
ファンデンベルク「癌患者を見舞うときには、予め言葉を用意するのでなく、会ったときに顔を見て感じたことを言いなさい。そこへ行って、そこにふさわしい感じたままの言葉を言うのがよい」
斉藤牧師(アメリカでチャプレンとして最初に亡くなった人に立会ったときに)「眠っているみたいですね」といったら、周囲がしらーっとした空気になった。その後は言葉が出なく、小一時間黙って未亡人の肩に手をおいていた。納骨の時にも呼ばれて、神の代理人として立ち会ってくれたと感謝された。それで、安心した、相手が受け取ってくれる。そこに居てくれる、決まり切った言葉で言ってくれるだけで、そのことに対して相手が穴埋めをして聞き取ってくれる。表現がつたなくても、相手がこちらの真実を引き継いでくれる。
#先生は死の臨床についても研究をしているので、こういう話題がちょくちょく出てくる。

人のためというのは関係性の中から産まれる。生まれつきじゃない。生まれながらの賢い人も、師、人に会わないと分からない。医者も病人に会わないと分からない。人間として深まらない。
利他行というのは理屈じゃなく、体験があって分かる。人の痛みに共感するのは自分の体験を元にできる。経験豊富、回り道をしている人ほど、人の気持ちを詮索、共感することができる。リーダになれる。

悟りは自覚だから、師からは学べないというのは考えが浅い、独りよがりになる。自分の経験した事で証明するというのは努力主義であり、自分よがりの小さな狭い悟りになる。人(師)から学ぶと、柔らかくなる。師が必要。
#大乗仏教は努力主義ではない。不染汚(汚れる以前)の自分を信じること。それを坐禅で確認する。

今に生きれば、いつでも死ねる。それがキリスト教や仏教じゃないか。仏の目線に戻ろう。今の日本の仏教は自分流解釈だから弱い。キリスト教やイスラム教はいつもキリストやアラー(神)につながるから強い。道元はそこを言っている、自分じゃなく、師につき、仏のいのちに気づきなさいと。

 

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