皇居ラン再び-膝の痛み無し、でも遅い! 海老天丼、古本祭り

もろもろ 鍼灸

皇居ラン再び(1)-膝の痛み無し、でも遅い!

皇居ランに再挑戦した。
今度は、神保町のサクラカフェというランステを使った。
ここは実態はバックパッカーなどが利用する割安のサクラホテルだ。各階に共同の洗面所とシャワー室がある。そのシャワー室が着替えとランニング後のシャワーに使える。荷物はフロントで預ける。
アディダスのランステと比べると、走ることに専門化したトレーニングなどはないが、ふだん空いている設備を有効利用する形で料金が安くなっている。朝のモーニングもカフェで取れるので、事業的には上手く設計されている。

今回は、迷子にならないように(^_^)、昼間に走った。順調に1周したが、抜かれるだけで抜けない。最後にやっと一人を抜いた、結構気持ちよいものだ。それでも、直ぐに終点だったから良かったが、もっと走っていたら抜き返されたかも。結局、50分かかった。普通、初心者でも、30~35分らしい。友人には、歩いたの?と言われたが、全部走りました。この調子では、来週、東京都中小企業診断士協会主催の「第4回WALK&RUNフェスタ2013」には、ランではなくウォークの方に変更した方がよいかも知れない、…。

今回の成果は、時間よりも膝の痛みが出なかったこと。走り方も気をつけたが、再発をしなかったということに安心した。鍼灸の効果を再認識できた。お灸の後も写真のように随分と薄くなった。

皇居ラン再び(2)-シャワーを浴びて、海老天丼

シャワーを浴びて、良い気分で外に出ると、ちょうど古本祭りをしていた。今日は、小銭入れに1万円札1枚つっ込んだだけなので、そうそう高い買い物もできないが、ぶらぶらと見るには良いだろう。その前に腹ごしらえ。この辺に来るといつも利用するエビの天ぷらが安くて美味しい店で、先に自動販売機でチケットを購入する。

…、財布がない!! 上着のポケット、ルックザックをひっくり返して中の荷物を全部出してみたが無い。先のランステでは、預かった荷物を名前を聞いただけで、隣の部屋へ放り込んでいたが、「抜かれたか?}、いやいや、財布はルックザックに入れてしょって走った、…。いろいろ考えたが、シャワー室で落とした可能性が高い。嫌な気持ちで、サクラカフェへ戻って、財布を落としたらしいからシャワー室を調べさせて欲しいと言ったら、どうぞと。シャワー室へ行きかけたら、どんな財布と尋ねてくる。かくかくしかじかというと、これですかと出してきた。それだ!早く言ってくれと思ったが、先方としてはどのシャワー室へ行くかを確認してから話したのだろう。よく戻ってきた、気持ちが晴れ晴れとした。現金なものである。

お店は神保町というより、九段下に近く、古くから京都産の竹刀を扱っている武道具店「陽明堂」の隣だ。写真のように、小振りだがエビがてんこ盛りになっている。さらに、ご飯の下にもエビがいくつも隠れている。腹一杯になって、古本祭りへ。

皇居ラン再び(3)-神保町古本祭り

さすが神保町、歩道も含めて店の先もずらりと本が何十軒と並ぶ。
道路前の箱に積まれている中に、神谷美恵子のエッセーがあった。彼女は、精神科医で、最近世界遺産に登録しようという報道もされた瀬戸内海のハンセン病患者を隔離した施設で、キリスト教徒的人道的な仕事をした。そのことを書いた「生きがいについて」を若い頃に読んで感動した記憶がよみがえって、つい買ってしまった。他には、鍼灸師として「気」に関する本や、京大式カードでお世話になった梅棹忠夫が若い頃に東南アジアの人類学調査をした本、仏像や街道の写真本を買って帰った。写真集は重い。

エッセーは、彼女の人柄のよく分かる文章で、さっと読んでしまうのが惜しい。少しづつ読みたい。いくつか内容を紹介すると、
(1)(最初が、小学生時分に外交官の父と共にスイスへ行き、ジャン・ジャック・ルソー研究所、当時はジャン・ピアジェが所長という研究所付属の小学校に転入した。)
小学生25人が一部屋で、一人一人に違う授業であり、絵とフランス語のカルタを与えられて、最初は何も教えられず、自分でめくって適当に発音を思いめぐらしているだけ。本当の発音を知りたくてじりじりしてくる。その頃に、先生が回ってきて教えてくださる。その喜び。万事がこんな風だった。

想像力は創造力に通じるだけでなく、自発的な好奇心とか他人の心への思いやりの基盤ともなり、さらには、人間を超えるものについての感覚-敬虔と畏れ-と培うものであろう。

ある時、白系ロシア人の痩せた、いつも寒そうにしている少年が私の隣のベンチに腰掛けて、私のおやつの水蜜桃をしげしげと眺めていた。やがて、僕にその皮を下さいという。実の方がおいしいんじゃない、実をあげましょうと言ったが。いや、僕は皮の方が好きなんだ、と断固と言われた。彼は皮を美味しそうに食べた。でもやっぱり実の方が好きだったのではないか、このことは後まで心にしこりを残した。それ以来、貧富の差とか人の自尊心など、それまで考えてもみなった事柄が心に大きな場所を締めるようになった。

#この発想が、後世ハンセン病棟で働くきっかけにもなったのだろう。相手に負担にならないように、人に助けを施すというのは難しいものだ。だから、逆にインドなどでは、富者が行う布施に対して贖罪の機会を与えてやったと、貧者の方が大いばりで布施を受け取ることもあるという。

(2)(育児日記から、戦後直ぐのものがない時期に早産の長男を抱えて苦闘しつつ、研究者の観点も含めて丁寧な日記を書いていたという。)
何から何まで近所の奥様の親身のお世話にすがってどうにかその場をしのいだものの、果たしてこの小さな皺だらけの赤ん坊が無事に育つものか。

傍らには身内も手伝いも誰もいない、ただ初めて親になった主人と私だけ。私は全てをなげうって、全力を尽くして、この月足らずの子の生命を守ろうと必死の覚悟を決めた。

乏しい中でも、子供は日に日に成長していく。そのめざましい跡を日記の中でたどっていくのは大きな楽しみであり、励ましであった。

(次男の日記も含めて)、今にこの二人が成人して親の手を離れていくとき、この日記は母からのよい贈り物となるであろう。たとえそれがどんなに不備なものであってもいい、そこには母とみどり児との間に営まれた日々の生活の人知れぬ悦びと感謝の思いがどのページにも染み渡っている。

#言葉づかいの一つ一つに、著者の人となり、心映えが現れている。

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