「南無の会坐禅会」テキストが「仏教に学ぶ生命観・看護と支え」に

坐禅

南無の会坐禅会のテキストが、「禅問答」から「仏教に学ぶ生命観・看護と支え」に変わりました。

通常は、道元の正法眼蔵をテキストにしているので、禅問答も少し外れていましたが、今回は大きく違います。

禅問答でも一般的な難しい説明では無く、字句に囚われす、問答の背景、釈迦の教えてきた仏教の真髄から最近の世相トピックスまで例に引いて、非常にわかりやすいものでした。

今回は、仏教者として非常に早い時期から、死の臨床に取り組んできた中野先生ならではの話が聞けます。先生は、1977年「死の臨床研究会」の発足時からの会員として、死の臨床において患者や家族に対する真の援助の道を仏教者の立場より研究してきました。また、1988年「日本生命倫理学会」の立ち上げから関わり、死をどう考えるか(いかに死を迎えるか)、がんの告知問題、臓器移植と生命倫理問題など深く考えてきました。その知見によって、厚労省「癌看護認定看護師養成講座」の講師を務め、自主研究会「医療と宗教を考える会」を作り、2011年の東日本震災を機に発足した「臨床宗教師」の顧問にも就任しています。

そういう意味で、最近流行の終活やエンディングノートを超えた、長い研究の成果といつものようにわかりやすく実際的なお話を聞けます。非常に熱が入っていて、いつもは時間厳守の先生が、1回目は時間を超過してしまいました。存命の間に、これだけは皆さんに伝えておきたいと、気がかりな発言も混じっていますが、白鳥の歌にならないように願いつつ、全てを受取り、吸収したいと思います。

これだけの内容を聞ける場、話せる先生はいないでしょう。普段、なじみの無い方にも非常に有益だと思います。関心をお持ちの方は、坐禅をするなら『南無の会「坐禅会」』をご覧になってください。数百円のテキスト代と毎回千円の会場費用だけで、誰でも参加できます。

坐禅会テキスト 「仏教に学ぶ生命観・看護と支え」 表紙
坐禅会テキスト「仏教に学ぶ生命観・看護と支え」 目次

知人からfacebookの方に質問があったので追記します。
(1)質問
先祖崇拝とは、原始宗教的なところから来ていることで、仏教からのものではないのだろうと想像しています。
さて、「お迎えが来る」というのは何処に由来するものなのか?

「仏様がお迎えに来る」
「神様がお迎えに来る」
「ご先祖様がお迎えに来る」
「先に逝った知っている人がお迎えに来る」
というような言葉があるのかどうかさえ知りません。

何が来るか分からないけれど、誰かが来るということで「お迎えが来る」と、信じているということでしょうか?

(2)私なりの回答
個人的には親しい先行者が迎えに来るような気がしますが、仏教的にはお釈迦様の手の中へ帰るのでしょうね。次回、中野先生に伺ってみます。

(3)中野先生の回答
中野先生から明快な回答を頂きました。
「お迎えが来るというのは、普段と違うことを、自分の心構え(気づき)が示している」ということです。
具体的には、
(a)自分の死期に気づく、それを認める心構えがある。
(b)誰がお迎えに来るかというと、死に臨んで、自分が思う人やもの(神仏)が来る。外から来るものでは無い。

付け加えると人それぞれで、
(c)お迎えが来ない人も居る(死期を感じたくない、認めたくない)。
(d)お迎えが来ているのに気づかない人も居る(死期を感じない)。

#あの世も含めて、自分の今の生き方、今の心ばえを反映していると言えます。

(4)知人のコメント
死(期)を受け入れた準備状態で出る表現であって、宗教から来ているわけでは無いが、自身の信仰に基づくお迎えが来る人もいるということですね。
『十分に生きた。死ぬ必要は無いけれど、死んでも良い。』なのだけど、「死ぬ」というより、「天に還る」気持ちに近い気がしました。
ご回答、たいへんありがとうございました。

#良い受け止め方をされたと思います。

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