南無の会「坐禅会」の500回記念講演会とパーティが行われました

坐禅

2/15(金)に仏教伝道センター8F和の間で、南無の会「坐禅会」の500回記念講演会とパーティが行われた。 

 記念講演は、薬師寺副住職の村上太胤老師が行い、100人を超す聴衆で溢れた。 

 老師は9歳で出家し、橋本凝胤管主(厳格に戒律を遵守して肉食妻帯せず、南都仏教・唯識教学の正統を継承し、体現した生活を生涯貫いたと言われている高僧)の下で、良く怒られながら、みっちりと修行をされた。食事が貧しく、夕食が粕汁だけで、禅宗の一汁一菜がうらやましかったという一菜つく)。そのおかげで、托鉢に出て頂く食事は全てがおいしかったという。 

 薬師寺の仏法というテーマで話されたが、ものの見方を変えるのが仏教だと。その一例に、「食べ物」と何気なく我々が使っている言葉にしても、人間の勝手な言い方で、「食べ物」は人間に食べられるために生まれてきたのじゃない。生きとし生けるもの全てのものに命がある。植物だって生きている、自ら土から水や養分を吸い上げて大きくなる。人間は土から養分を得ることはできない。他の生き物によって生かされている。 

 #(私見)これは、相手の立場から見てみる、相手とは人間に限らない、それで、迷妄から抜けることもあるとおっしゃったのかなと考えた。食べるだけ食べて、ダイエットをするという、古くは貴族しか持てない悩みを現代の日本人は一般庶民も持てるようになった。これは必ずしも良いことではないと少し思った。 

 #(邪見…)その後のパーティの料理が質素でも、不満の出ないようにという振りかな? ということは無く、仏教伝道センターらしく魚野菜中心だがおいしい料理が並んでいた。私も、しっかりと食べて飲みました。やはり、豊かな現代、このような悩みを持てるのは、幸せなんだと思います。 

 全てのものに命がある。連綿と引き継いでいく。仏壇に手を合わせることで、そうしていた祖父母が亡くなり拝まれるのを見ることで、子どもも命が順番に引き継がれることを自ずと知る。人間は二度死ぬと言われる、初めは死亡時、二度目は皆から忘れられた時。手を合わせることで、忘れていないよと、亡き人を思い出すよすがとなる。 

 #確かに、孫が家に来るときに、娘が仏壇の母に線香を上げるのを見て一緒に拝んでいる。家に仏壇があることが自然と亡き人を思い出させる。仏壇が無い家も多いだろうが、写真を飾っておいても良いと老師のことばであった。

 パーティも50人近い参加者があり、大騒ぎするでは無いが、あちこちで談笑がはずんだ。中に、長身ですっと端正な立ち姿の人が居た。司会が紹介してスピーチをされたが、俳優の滝田栄さんであった。薬師寺の村上老師との縁でいらしたとのこと。3.11で亡くなった方々の供養と今後の祈りの為に地蔵菩薩像を彫り、羽黒神社の鳥居の近くにお堂を建て、この3月17日には落慶法要の運びという。また、おつれあいが、メンタルケア講座の受講生として中野先生の講義を聴いているという。縁というのは本当に不思議なものだ。

 参加者は、長く続く坐禅会ゆかりの人たちなので、いずれも肩の力の抜けた、それでいて力強く生きていることを感じる方々だった。中でも、乾杯の音頭を取った新井さんは、近頃忙しくて坐禅会に参加できていないが、後数年経てば、また参加したいと話された。それが、80歳になんなんというお歳でのことばである。まだ、独法 高齢・障害・求職支援機構でゼネラルアドバイザーとして働いていらっしゃるとのこと。

 南無の会事務局長が述べた祝辞で、南無の会辻説法が軌道に乗った後、土の会、水の会、縁の会と三つの活動があり、縁の会は臨済宗と曹洞宗とが交互に坐禅会を開いたそうだ。そういう活動がいつとは無しに消えて、中野先生主催の坐禅会だけが残り、約22年、500回を迎えたとのこと。これからも、600回、千回と続けるようにとエールを頂いた。

 早速、501回目が2月22日に行われた。次回は、3月8日。その後の予定を知りたい方は、 南無の会「坐禅会」案内をご覧下さい。

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