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フランクフルト放送交響楽団 ベートーヴェンのPf協奏曲5番 皇帝

もろもろ

 ちょっと前(10月19日)に、所沢でドイツのフランクフルト放送交響楽団の演奏会を聴いてきました。
 まだ暑く、航空公園駅から汗をかきかき、ミューズ アークホールまで歩いた。ここは日本における航空発祥の地で、駅そばの公園には、YS11の本物が展示されている。今はJALに吸収された東亜国内航空が健在の頃に、このプロペラ機に時々乗せてもらっていたな。

フランクフルト交響楽団 YS11、看板、チケット
 アラン・アルティノグル指揮、ブルース・リウ ピアノというメンバー。
 一瞬、ブルース・リーかと空見。ブルース・リウは、中国系のパリ生まれカナダ育ち。3年ほど前に「ブルース」をファーストネームに付け加え、「ブルース・リーみたいで格好いいでしょう? この方が多くの人に名前を覚えてもらえそうだし」と本人も意識をしているようだ。若いが、2021年のショパン国際ピアノ・コンクールで優勝した実力者。
 ベートーヴェンのピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 Op.73《皇帝》を力強く演奏。丁度、舞台を真下に見下ろす二階席。ピアノ弾くブルース・リウの指が腱板を走るのを一つ一つ見える。
 演奏の進行ごとに変わる奏者もよく見える。ムソルグスキー(ラヴェル編曲)組曲《展覧会の絵》では、いろんな打楽器が出てくる。打楽器奏者がシンバルを構えて立つ、ジャーンと、一発勝負の瞬間をこちらも気を張って見た。
 音楽を聴くのと見るのと両方を楽しむ珍しい体験だった。

フランクフルト交響楽団 二階席、アンコール曲名

曹洞宗大本山 永平寺に参詣

坐禅

 9月にかねてから行きたいと思っていた永平寺を訪れることができた。
 剣道の京都大会の折に京都の寺々や比叡山(ここも京都だが)、高野山などには見学をしたり、写経などをしたが、長く坐禅を指導して頂いた老師の曹洞宗大本山へは参らずじまいだった。
 今回、仏教関係の旅企画をしている方が、老師の高齢も鑑みて修学旅行と銘打って曹洞宗の歴史を辿る旅を企画してくれた。永平寺、宝慶寺、永光寺、總持寺祖院、大乗寺と曹洞宗ゆかりの寺々を回りました。
 永平寺では、着いた夜に坐禅と講話、作法に則った食事を頂きました。翌朝は、本堂で修行中の雲水から高僧までが読経する中で、焼香をすることが出来ました。老師の縁のおかげで感激をしました。
(余談)私たちも経典を頂き、読経したが、○ページを開けてくださいと言われた。しかし、その前で終わっている。近くの雲水に聞いたら、そっと、経典を裏返してくれた。経典にも裏表がある! 娑婆の人生と同じか、と勉強になりました。

永平寺参道・旦過詰の門

永平寺本殿・坐禅堂

 本堂へは、よくテレビなどで紹介される、朝早くに雲水が振鈴を鳴らして駆け上がる長い急階段を上ります。高齢の一行で、ゆっくりと登り、下りは恐る恐ると降りました。

永平寺階段

 それから、總持寺祖院(永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山総持寺が神奈川県鶴見に移転前の寺、道元と並び称される瑩山紹瑾禅師が開山)を拝見した。ここは1月1日の能登半島地震で壊滅的な被害を受けて、現在は通常の参拝は受け付けていないが、老師の縁でお参りを出来た。僧堂の前では、大きな石の句碑が丁度半回転して、後ろ姿になっていた。僧堂の廊下に上がって、正面も拝見した。
 輪島市能登にあり、禅の里として有名。地域の為にも、必ず復興するとおっしゃっていた。

総持寺祖院

 他にも、永光寺では、本殿を拝観と同時にお茶も頂いた。ご住職は永平寺修業時代に老師からも教えを受けたという気さくな方で、この時の情景をインスタにアップされた。世の中、そう言う時代になった。永光寺は山岡鉄舟のゆかりの寺でも有り、肖像画と書が展示されていました。また、山門の阿形像の仁王様の片腕が無くなっていて、人々の身代わりになったのかと思いをはせました。

永光寺、宝髻寺、大乗寺

 福井の駅では、恐竜の町らしく、いろんな恐竜が迎えてくれます。他に、朝倉藩遺跡、北前船主の館、金沢茶屋町や近江町市場も訪ねました。土産に買った干し甘エビはつまみに最高だった。

福井駅恐竜、茶屋町、市場

平田輝 還暦&ニューアルバム発売記念LIVE

奄美

 今は奄美に来ています。
 小中の同級生に鍼をしている時に、こんなコンサートがある、マリスト高校の後輩だよと誘われて、それじゃ行ってみるかと数十年ぶりに、11月24日に、奄美市のアマホームPLAZAであったポピュラー音楽の演奏会に行った。
 還暦というので赤いスーツで登場して、いきなり、声を張り上げてシャウト。こんなんで1時間以上も持つのかと思ったが、なんと、2時間半も、最後まで、一人で歌いきった。それも、澄んだ濁りの無い声で、会場中に声が届いた。
 ギターにピアノと多彩な腕を披露した。バンドは親しい仲間のようで、一体感があった。ダンサーもシニアの手練れ。

 終わったら、マリストの親しい同期と久し振りに飲もうと事前に話をして、同じ平田という名字なので、関係あるの?と聞いたら、実は弟と言うのでびっくり。先の小中の同級生から、打上げもあるよと言うので、そこに混ぜて貰うことにした。それが、馬酔木を貸しきりで満員、奈良京都大阪から追っかけ、東京の大勢、奄美の応援団がさらに大勢で、楽しく過ごした。妹の家に泊めて貰うことにしてあって義弟が待ちくたびれた所へ遅くに帰った。

 

短いが、動画もあります。
熱演1 暗闇から浮かび上がるドラム

熱演2 ギター競演

熱演3 ピアノで盛り上がる

熱演4 ダンサーと奄美あん

熱演5 フィナーレ

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」東京都美術館

奄美

奄美つながりで紹介します。
展示は12月1日まで、もうすぐ終わります。
 興味ある方は是非、お出でください。但し混んでいます。
この二ヶ月で、20万人を超える入場者。私が行った10月30日も平日にもかかわらず、入場券を買うのに長蛇の列でした。

20241030一村展看板

テレビやネットで紹介されているのでご存じの方多いでしょうが、…。
 1908年7月に栃木で生まれて、6歳から東京で彫刻家の父の元で、日本画を学び、神童と呼ばれる。東京美術学校(現・東京藝術大学)に合格しながらも2ヵ月で退学。
 父や身内の死により、1938年5月に千葉へ移り、農業をしながら、独自に画業の生活を送る。中央画壇へ出品を続けるも、認められたのは、川端龍子の展覧会に入選した1作品のみ。
 失意の中で、九州旅行、宮崎の南国風景に目覚め、より南の奄美へ1958年12月に50歳で渡る。以後、紬の染色工として3年働き、2年間絵を描く生活を続けて、不遇のまま1977年9月に69歳で亡くなった。
 1984年12月NHKの日曜美術館で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」の全国放送を機に漸く世間に知られることになった。
 
 展示は地下一階に神童と呼ばれた若い頃の作品、一階に千葉時代、二階に奄美時代と三会場に分かれています。たくさんの作品に半日でも足りないくらい。
 奄美時代に完成された、南の日差しの中に力強く生える植物や鳥・魚の絵が見る者に感動を与えています。今も、奄美の地では同じ風景があります。私の鍼灸院の裏庭も、こんな感じです。すぐ側の海山はもっと一村の世界です。

20211030一村の描いた奄美の私の庭、海

一村の描いた奄美の私の山、アダン

 二ヶ月にわたる東京都美術館での展覧会により、多くの人に認められ、一村が生前に望んでいた希望が叶い、本当に良かったです。

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