坐禅
坐禅
坐禅の後に中野先生が解説を行う正法眼蔵のテキストが変わります。
有名な「般若心経」から、今度は、仏教に限らず宗教の大命題である「生死」について道元が記した、生死、身心学道、行仏威儀、四馬、全機を取り上げます。
中野先生は、死の臨床研究会に初期から参加して、終末期の医療や臓器移植問題にも深く関わっています。大学の講義でも、学生に自分が死期の近い病と仮定して誰か一人に宛てた手紙を書くことを通して死との向かい合いなどの研究してきました。先生が仏門に入った動機が生死に対する疑問と言うことで、単に古典の解説にとどまらず、身近な問題としてお話しされます。
私毎ながら、つい先日、つれあいの命日で子どもや孫と墓参りをしてきました。孫を見ることなく亡くなって、はや10年、月日の経つのは早いものです。坐禅会に通い出した頃に、既に末期癌でした、中野先生は、終末期医療に携わるナースへの講義で話したことや先駆的なセント・クリストファー・ホスピスを建設したシシリー・ソンダースの話などをなさり、おかげで心の準備をかなりできました。4月は岳父が亡くなった月でもある一方、二人の子供が生まれた月でもあり、私にとっては悲喜こもごも、生死入り交じる月です。今回のテキストでは、自らの生死も考えながら受講しようと思っています。
禅宗のお坊さんは亡くなるときに遺偈として言葉を残すとのことです。本当に息絶え絶えの中で記した遺偈もあるようですが、予め準備をしておくことが多い由。中野先生も毎年、正月に書き直し、講演などの予定も記して処方面へ連絡がとれる様にしているとのことです。私は正月にこのようなことを家族と話すだけのさばけかたはできていないので、今回、初めて、つれあいの命日にエンディングノートとして子供達に渡しました。びっくりしたようですが、何回かすれば、受け入れてくれるでしょう。何回もあると思うのが凡夫の未だしですが、…。
重い内容ですが、緩和ケアの基本などを導入として丁寧に話を進めてくださるので、坐禅だけでなく、貴重な会になると思います。興味ある方は、 坐禅をするなら『南無の会「坐禅会」』をご覧下さい。
2014年4月17日
坐禅
南無の会辻説法が新宿の常円寺であります。
今回の講師は、南無の会坐禅会を主催している中野先生です。
年の始めに心に残るお話を聞けると思います、興味ある方は是非どうぞ。
南無の会辻説法は、特定の宗派にこだわらず、広く仏教を学ぶ方の
ための集まりです。
お聴きになりたい方は会場の常円寺へご来場ください。予約は不要です。
お問い合わせは03(3754)6194南無の会事務局まで
・1月8日水曜日 午後7~9時(受付6時30分~)
・講師 中野東禅先生 南無の会副総務
・参加費1000円
・会場「常円寺」 新宿区西新宿7-12-5
JR「新宿駅」西口徒歩10分 西武「新宿駅」5分
地下鉄「新宿」「新宿西口」「西新宿」徒歩5分
2014年1月7日
坐禅
ナムの会坐禅会で、坐禅の後の講話テキストが、自証三昧が終わり、般若心経に変わりました。
自証三昧は、感動もあるがやや難解なところもあった。般若心経は親しみやすいので、興味ある方はどなたでも参加できます。南無の会「坐禅会」案内をご覧下さい。
般若心経は、おそらく一番有名なお経でご存じの方も多いでしょう。このお経が、有名な孫悟空に登場するお坊さんがインドのサンスクリット語(梵語)から中国語に翻訳したものであることを知っている人は多くないかもしれません。
孫悟空の物語り自身がこのお坊さんが中国からインドへ行って来たときの実体験、旅行記(世界三大旅行記と言われる『大唐西域記』…皇帝太宗に提出した)が元になっているのです。お坊さんの名は三蔵法師になっていると思うが、三蔵は三大経典、法師はお坊さん、今風に言えば翻訳家の一般名称です。本当の名前は、玄奘と言います。
この方は唐の時代の人で、インドで沢山の経典が新しく編纂されて中国へ入ってくる。その新しい情報とそれまでの翻訳に飽きたらず、自分でインドへ行こうと考えて実行した時の体験談です。唐が成立したばかりの頃で、鎖国状態であり、禁を破って密出国をして、途中で山賊に捕まってウルムチあたりで幽閉されたりした。現地民に助けられて、天山山脈から、パミール高原を越えてインドへたどり着きました。
現地の人にも玄奘は人気であり、そこの神であった猿が孫悟空として登場するというような、般若心経そのものの入口についても、豊富な知識を中野先生から聞くことができる。
なお、2007年には、玄奘の足跡をたどって、西安からウルムチ、天山南路、パミール高原、和田にいたり、タクラマカン砂漠を縦断する旅行を中野先生を先達に行った。私も、ちょうど会社を退職する直前で、卒業旅行のつもりで参加した。天山南路は荒涼たるはげ山と砂漠の間を列車で24時間も移動し、タクラマカン砂漠は、さらさらの細かい砂で西遊記の妖怪が出てもおかしくない雰囲気だった。この旅行記はいずれ、じっくりと紹介します。
自証とは、三昧(真実、悟り、仏のいのち)を自分で確かめ、証明すること。自分に引き当てて理解し、その喜びを語る。そして、信じたことを日常のあらゆるところで、日常の中でこれが仏法の教えと語るのではなく行動で示す。生きている姿で語る。
先生や釈迦から学ぶ。先徳にあこがれる。同時に、確かめるのは私たちめいめいで、私のスピリチュアリティ(私の真実)に従う。この両方が必要なことを説くのが自証三昧。
※三昧…静寂、不染汚、落ち着きの世界。これはサバーディというインドの言葉を音訳。
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(付録)中野先生による自証三昧の講話から(覚え聞き書き)
「あの世って、何?」…ようやく、こういう問題を正面から、日本の医療も取り上げることができるようになった。癌患者が「あの世って?」と言える。言い出せることが大事だ。以前は癌になると、それだけでパニック状態だった。
ファンデンベルク「癌患者を見舞うときには、予め言葉を用意するのでなく、会ったときに顔を見て感じたことを言いなさい。そこへ行って、そこにふさわしい感じたままの言葉を言うのがよい」
斉藤牧師(アメリカでチャプレンとして最初に亡くなった人に立会ったときに)「眠っているみたいですね」といったら、周囲がしらーっとした空気になった。その後は言葉が出なく、小一時間黙って未亡人の肩に手をおいていた。納骨の時にも呼ばれて、神の代理人として立ち会ってくれたと感謝された。それで、安心した、相手が受け取ってくれる。そこに居てくれる、決まり切った言葉で言ってくれるだけで、そのことに対して相手が穴埋めをして聞き取ってくれる。表現がつたなくても、相手がこちらの真実を引き継いでくれる。
#先生は死の臨床についても研究をしているので、こういう話題がちょくちょく出てくる。
人のためというのは関係性の中から産まれる。生まれつきじゃない。生まれながらの賢い人も、師、人に会わないと分からない。医者も病人に会わないと分からない。人間として深まらない。
利他行というのは理屈じゃなく、体験があって分かる。人の痛みに共感するのは自分の体験を元にできる。経験豊富、回り道をしている人ほど、人の気持ちを詮索、共感することができる。リーダになれる。
悟りは自覚だから、師からは学べないというのは考えが浅い、独りよがりになる。自分の経験した事で証明するというのは努力主義であり、自分よがりの小さな狭い悟りになる。人(師)から学ぶと、柔らかくなる。師が必要。
#大乗仏教は努力主義ではない。不染汚(汚れる以前)の自分を信じること。それを坐禅で確認する。
今に生きれば、いつでも死ねる。それがキリスト教や仏教じゃないか。仏の目線に戻ろう。今の日本の仏教は自分流解釈だから弱い。キリスト教やイスラム教はいつもキリストやアラー(神)につながるから強い。道元はそこを言っている、自分じゃなく、師につき、仏のいのちに気づきなさいと。
2013年10月29日
坐禅
2/15(金)に仏教伝道センター8F和の間で、南無の会「坐禅会」の500回記念講演会とパーティが行われた。
記念講演は、薬師寺副住職の村上太胤老師が行い、100人を超す聴衆で溢れた。
老師は9歳で出家し、橋本凝胤管主(厳格に戒律を遵守して肉食妻帯せず、南都仏教・唯識教学の正統を継承し、体現した生活を生涯貫いたと言われている高僧)の下で、良く怒られながら、みっちりと修行をされた。食事が貧しく、夕食が粕汁だけで、禅宗の一汁一菜がうらやましかったという(一菜つく)。そのおかげで、托鉢に出て頂く食事は全てがおいしかったという。
薬師寺の仏法というテーマで話されたが、ものの見方を変えるのが仏教だと。その一例に、「食べ物」と何気なく我々が使っている言葉にしても、人間の勝手な言い方で、「食べ物」は人間に食べられるために生まれてきたのじゃない。生きとし生けるもの全てのものに命がある。植物だって生きている、自ら土から水や養分を吸い上げて大きくなる。人間は土から養分を得ることはできない。他の生き物によって生かされている。
#(私見)これは、相手の立場から見てみる、相手とは人間に限らない、それで、迷妄から抜けることもあるとおっしゃったのかなと考えた。食べるだけ食べて、ダイエットをするという、古くは貴族しか持てない悩みを現代の日本人は一般庶民も持てるようになった。これは必ずしも良いことではないと少し思った。
#(邪見…)その後のパーティの料理が質素でも、不満の出ないようにという振りかな? ということは無く、仏教伝道センターらしく魚野菜中心だがおいしい料理が並んでいた。私も、しっかりと食べて飲みました。やはり、豊かな現代、このような悩みを持てるのは、幸せなんだと思います。
全てのものに命がある。連綿と引き継いでいく。仏壇に手を合わせることで、そうしていた祖父母が亡くなり拝まれるのを見ることで、子どもも命が順番に引き継がれることを自ずと知る。人間は二度死ぬと言われる、初めは死亡時、二度目は皆から忘れられた時。手を合わせることで、忘れていないよと、亡き人を思い出すよすがとなる。
#確かに、孫が家に来るときに、娘が仏壇の母に線香を上げるのを見て一緒に拝んでいる。家に仏壇があることが自然と亡き人を思い出させる。仏壇が無い家も多いだろうが、写真を飾っておいても良いと老師のことばであった。
パーティも50人近い参加者があり、大騒ぎするでは無いが、あちこちで談笑がはずんだ。中に、長身ですっと端正な立ち姿の人が居た。司会が紹介してスピーチをされたが、俳優の滝田栄さんであった。薬師寺の村上老師との縁でいらしたとのこと。3.11で亡くなった方々の供養と今後の祈りの為に地蔵菩薩像を彫り、羽黒神社の鳥居の近くにお堂を建て、この3月17日には落慶法要の運びという。また、おつれあいが、メンタルケア講座の受講生として中野先生の講義を聴いているという。縁というのは本当に不思議なものだ。
参加者は、長く続く坐禅会ゆかりの人たちなので、いずれも肩の力の抜けた、それでいて力強く生きていることを感じる方々だった。中でも、乾杯の音頭を取った新井さんは、近頃忙しくて坐禅会に参加できていないが、後数年経てば、また参加したいと話された。それが、80歳になんなんというお歳でのことばである。まだ、独法 高齢・障害・求職支援機構でゼネラルアドバイザーとして働いていらっしゃるとのこと。
南無の会事務局長が述べた祝辞で、南無の会辻説法が軌道に乗った後、土の会、水の会、縁の会と三つの活動があり、縁の会は臨済宗と曹洞宗とが交互に坐禅会を開いたそうだ。そういう活動がいつとは無しに消えて、中野先生主催の坐禅会だけが残り、約22年、500回を迎えたとのこと。これからも、600回、千回と続けるようにとエールを頂いた。
早速、501回目が2月22日に行われた。次回は、3月8日。その後の予定を知りたい方は、 南無の会「坐禅会」案内をご覧下さい。
2013年2月23日
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