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坐禅
昨日11/15は、日仏会館で、「一休とは何か~この妖怪に再び取り組む」というシンポジウムに丸一日参加してきた。
これは、フランス国立極東学院の研究員である、Dr.ダヴァンが企画して、日本における一休研究者の選りすぐりの方達が登壇する。それが無料という実に贅沢な催しであった。
一休はとんち話でみんなに親しまれている。しかし、実際は、室町時代の高僧?破戒僧?であり、時の五山仏教や同門の兄弟子を罵倒した強烈な個性の持ち主だった。

午前中は、花園大学の吉澤勝弘教授の基調講演に続いて、駒澤大学の小川隆教授と二人の対談。
先ず、風狂と云われ、自らは風流と称した様々の禅僧らしからぬ破戒行動が、臨済録の最後の段落にある、「吾が正法眼蔵、このカツロヘンに向かって滅却せん」から、臨済宗として盛んなるも臨済の禅が引き継がれたのか否かという大問題に関係しているという。
曹洞宗の坐禅会に行って居るだけの私には、皆目分からない問題提起を初っぱなにされた。このテーマは、午後の論者にもいろんな形で取り上げられた。
午後は、実に盛りだくさん。
初めに、日本の中世史を研究している日本学術振興会の吉澤元特別研究員から、室町時代という応仁の乱以降の乱世、文明の大転換時代を仏教の堕落ととも言われる世俗化の問題と絡めて一休を論じて頂いた。明治以降の皇国史観の中で、武家社会への否定的評価、足利政権を成り上がり、仏教暗黒時代と決めつけてきた近代歴史学の見直しも提起された。
続いて、堺市博物館の矢内一麿学芸員から、「中世人社会史からみた一休派の結衆について」と題して講演があった。偏屈な一匹狼と思ったが、弟子達が居て、毎年集まり、明治まで続いたという。
そして、駒澤大学の飯塚大展教授による、「一休増の変容-禅籍抄物史料を中心として」と題して、漢文(漢字だけ)の史料をすらすらと読み下して説明をされた。素人の私にはついて行けなかった。
研究として貴重な活動のようであり、最後のパネルディスカッションでは登壇の多くの先生から資料の照会や今後への期待が述べられた。
そして、慶応大学の堀川貴司教授から、「五山文学と一休の詩偈」として、少年時代の五山(建仁寺)時代の詩作の紹介。七言絶句の詩作の方法、新選分類集諸家詩巻、属新編分類諸家詩集など中国の詩を手本として学んだという。当時の五山は、南北朝の偈頌全盛から、世俗的な詩中心へと転換していく時期だったらしい。それに飽き足らず、一休は華叟の元へ移ったらしい。
そして、企画者のDr.ダヴァンが、「日本禅宗史における一休の考察」として、自らのこれからの研究に対する取組を紹介した。兄弟子養叟への激しい非難は、公案に対する養叟たちの新しい取組に対する反発、思想的な隔たりがあったのではないかとして、色々な仮説を掲げた。禅の思想史における一休の位置を考察していくという、これからのテーマを発表された実に新鮮な発表だった。
そして、東京大学の飯島孝良教授が、「20世紀が創った一休像~一休とわれわれのあいだの多面体(プリズム)」として、特に戦後に出た一休に対する多くの評論、評伝を考察された。各論者の問題意識を反映して、権威への反逆、大自信、破戒、エロスが語られる。特に批判精神を重視して、新たな価値を創出しようとする活力に共鳴をしているという。唐木による近代化から敗戦への道筋に対するアンチテーゼとしての一休、加藤周一による悟りと戒律とを二律背反として調和できず苦闘をしてきた一休という所が印象に残った。
最後に全員が登壇して1時間ほどパネルをした。
一日聞いて、分かったのは、一休というのは分からない、分かっていないという事だった。これだけ、膨大な量を専門家から聞いたら、よく分かったというのが普通だろうが、圧倒される情報の中で、専門家もよく分からんと言っている。肖像画を見ても分かるような不逞の面構え、お前らなんぞにわかってたまるかという人物だということが分かった。面白い存在だ。
実は、日仏会館という場所は、結構危ない場所だったようだ。先ほど、こんなメールも来た。
日仏会館フランス事務所 イベント案内
11 月18日講演会中止のお知らせ
2015 年12月・2016年1月のプログラム
初めて行ったので気づかなかったが、入口は一つに限定するなど、いつもとは違う対応だったような。
冒頭では、1分間の黙祷もあった。
昼食は、恵比寿ガーデンにあるビヤホールで、アルコール無しの食事をした。隣りではうまそうにビールを飲んでいたが、…。次は飲みに来よう。
2015年11月16日
IT
先週の土曜日11/14は、中小企業診断士コンピュータ研究会の35周年記念セミナーと懇親会がビジョンセンター浅草であった。
セミナーでは、最初に、お祭り野郎にはなじみの浅草中屋の中川社長から、eコマースの概念を変える中屋ファクトリーについて講演があった。祭用品というのは季節用品であり、その通年化へ工夫を凝らしてきた経緯が語られた。UNIXワークステーションが盛んに利用されるようになった1990年代からIT化を進めてきた、中小企業としては先進的な会社と云うことが分かった。そして、今回は、ネットで木札をオーダーメイドできるシステムを開発したという。それが木札にとどまらずに、Tシャツ、半纏へも拡張可能で、諏訪大社の御柱祭でも採用されるとのこと。これは毎回けが人が出る勇壮な祭であり、気を失っていても誰か分かるように名入れをする、その為に有効だという思わぬ理由もあるらしい。
※ITには関係ないが、仲見世の中屋本店には、三社祭の見越しの1/6ミニチュアがあるという。本物は1年に10日しかお目にかかれないので、多くの観光客に喜ばれているとか。私も今度、行ってみようと思う。
続いて、2期,9期と二代にわたって会長を勤めた高島先生から、中小企業のIT経営支援を振り返るとして、経営情報システムの変遷、電話からインターネット、コンピュータ研究会の創立余話、その後の活動、購買行動の変化、IoTまで多岐にわたるお話があった。中でも、攻めのIT経営支援、経営者の思いに寄り添い気づきを促すというカスタマーオリエンティドな思考を強調されたのが印象に残った。
私は、コン研より少し長いくらいの期間、コンピュータの仕事をしてきたが、本当に変化の激しい世界だと今更に感じた。企業30年説というのが流行ったが、私が社会に出た頃は情報化社会、知識社会と云うことを盛んに云われた。現在は、インターネット、スマートフォンによってインフラとしての知識はいくらでも手に入るようになった。これからは知恵が必要とされる社会になるのだろう。

懇親会は、木村初代会長の乾杯に続いて、創設メンバの挨拶がり、料理と酒を楽しみつつ、懐かしいメンバとの交流を深めた。オーガニック料理店で、肉に見えるのも野菜類、日本酒、ビール、ワインも全てオーガニックという。健康的なひとときであった。
二次会は、近くの居酒屋で、いかにも居酒屋らしいメニューで、揚げ物、たくあん、ビール、焼酎、…と、これは身体にはどうかと思うが、懐にはやさしいメニューだった。旧知のメンバや名前だけ知っていた人とも話せて有意義であった。
2015年11月16日
坐禅
南無の会坐禅会で坐禅の後に中野先生が行う講話のテキストが変わりました。

今までは、「禅の料理と食事の心」で、禅宗の食の作法が丁寧に細かく書かれていて、面白かった。その作法が日本的な茶道や礼儀作法の源流になったという。
今度は、正法眼蔵そのものでは無く、道元より年長ながら一番弟子として、長く側に居り、後を継いだ懐奘による「正法眼蔵随聞記」です。これは、誰に見せるとも無く、1日の終わり(夜分)に道元の言行を記録した私記です。懐奘の死後に、行李の中から発見されたそうです。
最初が、道元が中国の天童寺に居た時のエピソードです。
外国人である道元の器量を認めた浄和尚が寺の侍者(官房長官のようなもの)に任命しようとした時のことです。
道元は、日本での評判も良くなる、いつも側に居て勉強になるというメリットを感じつつも、
外国人の私がなっては、具眼の人に、中国に「人」がいないと言うようなものだと言われよう。
であるから、お断りすると書状で述べたら、二度と要請しなかったという。
このように、具眼の人の考えに注意しなければならないと語った。
中野先生によると、仏教では、恥を感じるという大事な考えがあり、それには二つあるそうです。
一つは、人を見るに、具眼(本物)の人眼を感じる。
二つには、自分自身に対して、本物の人の眼を座標軸として、自分を見る。
こんな大事なことを道元が話すのを聞いて、門下となり、記録もしようと考えたのだろうとのことです。
このように、懐奘の記したことだけで無く、仏教、禅宗にまつわる全体、当時の状況を含めて説明をして頂けるので、自分で翻訳本や解説本を読むよりも、深く知ることができます。興味ある方は、坐禅をするなら『南無の会「坐禅会」』をご覧下さい。
※蛇足ながら、各段落は、「示に云く」と始まり、通常の仏教の如是我聞とは違います。これは、論語の「子曰く」と同じように、師匠の側近くに聞いたことを記しているという臨場感があります。
◇如是我聞というのは、「かくのごとく、我聞けり」と釈迦の云う言葉を弟子の阿難あるいは他の弟子が聞いたという意味で使う。
2015年11月12日
IT もろもろ
中小企業診断士中央支部のイベントとして、11月7日に、福生にある造り酒屋 石川酒造の酒蔵を見学に行って来ました。
石川家は福生市(旧熊川村)で、18代400年続いています。13代目が、1863年に酒屋を始めてから、150年。酒倉は国登録有形文化財にも指定されているがっしりした作りです。案内の方が達者なしゃべくりで、あっという間に40分が過ぎた。その後、地ビールと清酒を飲み放題の懇親会。美味しかったですね、しこたま飲んで、帰りは、なかなか家へたどり着かなかった。立川駅で多摩モノレールに乗り換えたのだが、反対側に乗ったようで、玉川上水まで来てしまっていた。

先立つ、10月20日には、18代目 石川社長の講演会があり、続いて、実際に倉を見よう!、そして飲もう!という催しでした。
石川酒造は、合併前の熊川村で名主も務めた名家で、特筆すべきは、400年間、代々日記を書いていたということです。それを父の代に大学の先生に頼んで現代語に翻訳してもらい出版したという。
社長の講演は、その内容を引きながら、独特の歴史観を踏まえ、興味深い物だった。
明治以降の9代を、三つに分けて、それぞれ三人が変化(change)、挑戦(challenge)、充電(charge)の役割を担うという。
一つ目は、13代目に明治維新に遭遇する(change)。14代目がさらにビールの醸造も始めた(challenge)。15代目は派手なことは無く(charge)。
二つ目は、日本の敗戦、10万坪という広大な土地を農地解放で手放す(change)。戦後については、翻訳した日記の9巻目になる。16代目の日記には、「しかし、先祖も許してくれるだろう。国家の方針だから」とある由。
父の17代目は、事業を拡大すると共に、資料館を作ったり、日記の翻訳をしたりと色々なことをした(challenge)。現在の社長が18代目で、性格的にはチャレンジャーだが、父の広げた事業の投資返済、充電(charge)に勤めているという(地ビールは父の代だが、18代目が中心的な役割を果たしたような)。
三つ目は、子どもの時代、21世紀に入り、日本が赤字国家として借金(国債)棒引きなど、リーマンショックなど比べものにならない、大きな波乱が起きるだろうと予測しています。そして何とか16代目のように乗り切って欲しいという思いで観ているそうです。
※明治維新、敗戦に匹敵する大きな変動を迎えるというのは、容易ならざる事態であり、その可能性も大きいと感じました。醍醐味のある時代を我々は生きています。
2015年11月12日
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