「剣の悟りを求めて」 ー剣の悟りを求めて入ったが、力まず現実直視の心を学ぶー

坐禅 武道

 数年前の”南無の会坐禅会600回記念”で、ただのパーティで無く、参加者が坐禅で得た功徳(メリット)を論集にしようと指導されている中野先生が発案されて、かなりの投稿が集まりました。それぞれに興味深いものでした。

 本人の投稿文は公開しても良いというので、遅ればせながら紹介します。長文なので、時間がある方はどうぞ。

「剣の悟りを求めて」
ー剣の悟りを求めて入ったが、力まず現実直視の心を学ぶー

 私は長く剣道をしていて、昔の剣豪が坐禅をして悟った事に興味を持っていましたが、な かなか機会がありませんでした。それが2001年に中小企業診断士の資格を取って、その集まりの中で、港区田町の仏教伝道センターで、坐禅会をしていることを紹介されてから、通い始めて20年近くになります。

 最初は、公案を考えて、ハタと悟るといったことを期待していたのですが、それは臨済宗のようで、ここでは、曹洞宗の中野先生が指導をしています。曹洞宗は、道元の教えで、毎日の生活や修行の中で平凡な人でも、悟りに近づき、一度悟って終わりでは無く、常に新たに修行を続けると言うことで、返って私には合っているようです。

 先生は、生命倫理(臓器移植)や死の臨床に立合うことにも関心を持たれ、たびたび、癌の話が出てきます。その中で、「どんなことがあっても、『人生、良かった!』にしよう」というのが、先生の口癖です。通い出した頃、末期癌のつれあいがいたので、癌の話が出る度にぎくっとしたが、そのおかげで、心の準備をかなりできたと思います。
 連れ合いが亡くなった後も、先生の講話が生き死にに触れることが多くて、心の安定に役立ってきました。

 先生は教化研修部門の講師でもあり、著書も多数出版され、何を尋ねても、その場で答える学識に驚かれます。何よりも、講話は脱線と笑いが多く、ユーモアが好きな他に例を見ない先生だと思います。それにつられて、長く通っているようなものです。

 つれあいが亡くなった丁度1年後に、朝の通勤電車に幹事から、先生の奥さんが亡くなったと電話が入りました。お寺の名前と住所を教わると、勤め先の直ぐ近くでした。これは行かねばと思い、昼休みに総務から黒のネクタイを借りて訪問しました。すると丁度先生が廊下に座っておられて、(駅で突然亡くなられたので)警察から遺体をこちらへ安置したところで、葬儀は実は明日、とおっしゃいました。今日と思い込み、他人事とは思えず、駆けつけてしまいました。折に触れて先生が「自分に体験があるから共感できる」、「自分に悲しみがあるから、悲しみの人に寄り添い、わかる」と言われる、そのことを実感しました。

 一つ、うらやましかったのは、私のように葬儀屋探しはしなくても、安置する場所があると言うことでした。つれあいの死に際して私が一番辛かったのは、医者に危篤と言われてから、遠くからも身内が大勢集まった中で、一人離れて、葬儀社を探したときです。24時間、側に着いていたいのに、亡くなれば直ぐに病院から引き取らねばならず、病室から電話するわけにもいかず、二人とも地方から出てきて、何の伝手もなく、電話で何件も照会をしました。仕事の都合で亡くなったら葬式は早くやってくれという人もいて、まだ生きているのに、葬儀屋にいつできるかと尋ねて回るのは心塞ぐ思いでした。

 その後、折に触れて、先生が奥様のことを語るのは、心に響き、参考になりました。中でも、「供養には思いを引き継ぐことである」と話されたのが心に残っています。先生の奥さんは、海外の恵まれない子供の里親をしていたことを、その子供から手紙が来たのを見て知り、遺志を引き継いで里親になっているとの事です。
 それを聞いて、つれあいは、子供が大きくなったら老人福祉の仕事をしたいと思いながら、亡くなったことを思い出しました。私が定年直前に鍼灸の道へ進んだのは、つれあいの福祉の仕事への思いを引き継ぐのに役立つ技術であり、導きがあったのだと得心しました。

 つれあいが亡くなった翌年の異動で、お客さんが最も多い首都圏の担当となり、今までに輪をかけて忙しくなりました。長年かけて開発したシステムは、客先も含めて担当は入れ替わり、中身を知っている人も少ない中で、無理な改造を頼まれたりして、障害も多くて、責任者として、対応に追われました。そういう時に坐禅をすると頭ののぼせや力みがとれて気持ちも楽になりました。担当した3年間は、それ以前の30数年間分以上の謝罪をしたのではないかと思いますが、剣道と坐禅で乗り越えられたと思います。

 定年前に退職して、鍼灸の専門学校へ行き、鍼灸師になってからは、自由な時間が増えました。その中で、自由に流されずに心を見直すのに月2回の坐禅会は欠かせません。

 先生の講話の中で大事だと思うことをノートに取り、何冊にもなりました。中でも、心に響いているのは、講話の中で何度も繰り返し話される「如実知見」と「出来心が本心」と「縁起条件の調和」という言葉です。

 「人間は見たい物しか見ない。関心のあること、自分の立場から見る。その関心、立場を捨てて純粋にあるがままを見よう」、それが如実知見だと教わりました。
 あるがままに見よう、そう思うだけで見え方が変わってくる気がします。困った場面ほど、如実知見、如実知見と言い聞かせて現実を直視するようにしています。

 「生きているとは、一時も生を止めることが無い。自分は一時も止めること無く自分だ。だから、求めている自分と今の自分が違うと言うことは無い。『今の自分が自分で隠しようが無い』『丸出し』で生きている」、つい出来心でというのが本当の自分だと教わりました。
 目の前のことと別に何かあるのではないから、今のありのままを直視して、自分にも他人にも、『言い訳は要らない、聞かない』生き方を心がけるようにしています。

 「全ての存在は縁起条件の調和である。(1)条件は変化する、だから一定ではなく、無常。(2)存在は縁によって起こる、だから実態は無い、無我。(3)縁起条件の調和で存在する、だから損得は無い、無為」、だから存在はこだわりようが無い、空だと教わりました。
 困った時には、この縁起条件の調和だと思い聞かせて、自分であれこれ悩んでも仕方ない、病気は病気に任す、あるように生きるという勇気を得ています。

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